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EU離脱問題についての責任の所在



前回は相手が言いたいこと、つまり本音の部分を読み取ろうという感じの話でした。

今回は、これと関連してイギリスのEU離脱について考えてみることにします。今回は相手の本音を読み取った上で、その責任の所在はどこにあるのかを考えます。

EU離脱でよく言われたのが「国民は馬鹿だ、なんで自分たちが不利になるような投票をするんだ、何を考えている!!」などと政治家の方々から言われていました。

ここでの本質的な問題は何でしょう?

それは、なぜ国民はEU離脱に賛成したのかという原因についてです。責任について考える時、当然結果を見て判断しなければなりませんが、しかし、より深く考えるべきは原因についてです。

政治家は「国民は間違った判断をした」と言いますが、しかし、もし本当に間違った判断であり、結果であるならば、そこには原因があるはずです。したがって、本当に間違った判断をした国民だけが責められるべきなのでしょうか。これは非常に難しい問題ですが、ここではより多くの視点、特に普通では考えられないような視点を中心に語ることにします。

一つ言えることは、現状に何の不満もなければ、もっと言えば現状の政治に何の不満もなければ国民は賛成なんかに投票しなかっただろうということです。(当時の首相や市長はEU離脱には反対派)

思うに、これは責任の所在が非常に難しい問題でもあると思います。

つまり、国民が政治家を選びます。民主主義なんだから当たり前ですよね。その為、すべての責任は国民に帰結します。

ただ、今の時代、本当にそれでいいのかと思う事案は多々あります。

政治に対する不満は全世界でかなり大きなものになっています。これは、政治家の汚職や癒着、政治家が社会問題を全く解決できていないことなどが挙げられます。

これが誰の責任かと問われれば、これは難しい問題だと言わざるを得ません。

今までは全部国民の責任にされてきました。悪い政治家を見抜けない国民が悪い。原発問題でも電力会社は儲けるだけ儲けておいて(その多くは国民に還元されていない)、いざ事故が起こり多額の負債が発生した時には税金が使われます。なぜなら最終的にはすべての責任は国民に帰結する仕組みだからです。

民主主義の良い点は多々ありますが、悪い部分はお金持ちや権力者の責任が都合よく全て国民に押し付けられるという点です。

つまり、弱者である国民がその責任を全部かぶります。正しかろうが、間違っていようが、何であろうが関係ありません。

政治家はいくら国の借金を増やし失敗したとしてもごめんなさいと辞任すれば全て解決です。彼らにとってはそれが責任を取るとはそういうことです。法的にも公務員が作り出した負債は個人責任として請求できません。全部税金が使われます。

政治家のような人達は、例えば、政治資金で大規模な資産を形成していたとして、それが発覚すると「ごめんなさい」とやるだけです。お金は決して戻ってきません。

今現在のシステムから考えるとこれからも国民が負うべき責務や債権、借金は増え続けていくでしょう。反対に国民の責任が減らされるということは決してありえません。

理由としてははっきりしていて、国民が政治家を選ぶのだから、その責任は全部国民が負うというのが筋だからです。

しかし、本当にこれでいいんでしょうか。原因は今までの政治にあるのに、その責任全てをこれから生まれてくる人達に押し付けることで、世の中は良くなるのでしょうか。私達は生き残れる?

この答えについては次辺りで書きます。


相手が言いたいことと本当のところの話



前回、Amazonの読み放題サービスで人気本が即座に取り下げられたことについて私は自分なりの考えを述べました。

Amazonは「サービスが予想外の人気で赤字が出てしまって人気本を取り下げた」という理由で説明しています。

ここで、Amazon側が言いたいのは、「消費者のせいでこうなったので、自分は悪く無い、仕方なかった、やむを得なかった」ということだと考えられます。

では、これは本当なのでしょうか。

私には内部的な事情については分かりませんが、私が言えることとしてはAmazonほど儲けている企業ならやろうと思えばできたのでは?ということ。そして、儲けを増やそうとしたら最初からそのつもりで計画し、宣伝のために最初は品揃えを倍増して見せた方が効果的だろうということです。




Amazonの商売について


私はAmaoznの商売方法について多少の疑問が前々からあります。

例えば、最近では読み放題のサービスが話題になりました。

でも私は最初から宣伝目的で人気商品を含めていただけで、後で取り下げるつもりだろうなと予想していました。

案の定、多くの人が読むであろう人気本はサービス開始まもなく取り下げられることになりました。

理由は予想外にサービスが人気だったとAmazonは説明しています。

私は、読み放題サービスが本当の意味での消費者の節約にはならないと考えています。例えば、人気本なんかは普通に売ったほうが売れますよね。したがって、読み放題に含める意味が分かりませんでした。

当然ですよね。本当の節約につながってしまったらAmazonは儲かりません。

いや、儲ける事自体は悪くはありません。ただ、後述しますが、私は昔からAmazonの商売のやり方は上手だなあと思うと同時に、多少の疑問を感じていました。簡単に言うと怪しいとも思っていたのです。

Amazonのこれまでのやり方を見ていると、売れ残りをいかに上手く売るのかという点に力を入れているように見えますし、そこが非常に上手いと思います。

次は、Amazonが説明する「サービスが予想外の人気で赤字が出てしまって人気本を取り下げた」という理由について考えてみます。

私はその真偽を判定することはできませんが、相手の言いたいことを読み取ることはできます。

ここで、Amazonが言いたいことは何なのでしょうか。

それは「消費者のせいでこうなった」、または「消費者のせいでこうなったので、自分達は悪く無い、仕方なかった、やむを得なかったんだ」ということです。Amazonがこの件で言いたいのはこういうことだと思います。少し誇張した表現になってしまいましたが、ようは自分達のせいではないという説明ですね。

Q 人気本がいくつも読み放題のサービスから外れたけどなぜ?

A サービスが予想外の人気で赤字が出てしまったためです

こういうケースでは特に、相手のいいたこと、伝えたいことを読み取らなくては正しい判断はできません。特に消費者側としてはこういうのを読み取る能力が問われます。相手の説明を鵜呑みにして、「じゃあ、しょうがないなあ」と単純に考えるとよくありません。そもそもしようがない以外のことがあるのでしょうか。すべての事柄は説明によっていくらでも「仕方がなかった」と変換することは可能なのです。

続きは次回ですが、私は今回の件は2つの理由からAmazonは最初から人気本を宣伝のために利用し、あとで取り下げる計画だったのだと考えています。いや、こういうやり方が必ずしも悪いとは思いません。規約はAmazonの都合の良いように作られているだろうし、法的には問題ないように作られているでしょう。ただ、Amazonが提示するサービスは、消費者が宣伝を見て判断したものとは少しばかり異なるのかもしれません。


AmazonAWSなど


http://postd.cc/why-we-moved-from-amazon-web-services-to-google-cloud-platform/

私の場合、AmazonのAWSはあまり使っていなくて、もっぱらGoogle Cloudのほうが好きだし、使いやすいと思っています。

Amazonっていうのは個人的にはあまり好きではない。それに技術的には非常に遅れている企業だと思っています。普通にサービスを使っているだけでも何となくそういうのは感じます。

例えば、Kindleを使っている人は多いかと思いますが、あれはコンテンツビジネスとして優れているのであって、技術的に優れているわけではありません。Kindleの操作性やストア表示、ストア検索などを見ていても、全然使えないという感じなのです。便利じゃないです。

Kindleが便利なのはたくさんのコンテンツが揃っていること及び、安さにあると思っています。これがAmazonのやり方だと思っています。

しかし、内実、それが技術的に優れていることには直接結びつきません。

また、例えば、Amazonアソシエイトについて知っている方は、Amazonが特別技術で優れているとは普通考えないでしょう。

それを除いてもAmazonはSSLに最近まで非対応だったり(広告を含め)、二段階認証が使えなかったりとサービス自体にもぎこちない部分は日頃からたくさん感じています。そして、他の企業と比べ、何か遅れているなーと思うことも多いのです。

ただ、Amazonは技術的には特別優れていなくても商品数と安さなどに特化しており、まとめサイト的な使いやすさがあるのだと思います。

続きは今度。



ユーフォ2期



ユーフォは2期あるの正直びっくりした。この作品は映画化することにも結構驚いた記憶がある。

何故かと言うと、自分はユーフォはあまりおもしろいとは思わなかったから。ただ、個人的な感想や予測はやっぱりあてにならないなーとも思う。

でも考えてみると京アニなのでそれほど驚くべきことでもないかもしれない。

例えば、京アニは中二病でも映画化と2期をやっている。これ自体は好きな作品だったけど、2期と映画は面白いとは感じなかった気がする。

京アニは一つの作品を割りと長めに付き合ってくれるので、その姿勢は好きだったりする。ユーフォも売上で2期を作るかどうかを決めているんじゃなく、1期終了時に既に作り始めているような早さだと思った。いや、単に作るのが早いだけなのだろうか。もしかしたら売上を見てから決めているのかもしれない。ただ、私はユーフォは映画化と2期が思った以上に早かったと思った。

ユーフォ2期は期待できるのだろうか。1期があまり面白くなかったけど、2期はどうなるかわからない。中二病の場合、1期が面白くて2期がつまらなかったので、その逆はありうる。


評価をする側と評価をされる側



私は基本的に評価をする側よりも評価をされる側のほうがレベルが高いとそう思っている。

なぜなら、実際に行動することよりも、口で言うだけのほうが簡単なことが多いからだからだ。

しかし、評価をする人間も時には必要で、かつ重要な役割を担っているとも言える。つまり、どちらも必要なのだと思う。

私はどちらかと言うと「評価をする人間よりも、評価をされる側の人間になれ」という主張を強く持っている。

ただ、これについては私の正確な主張とは異なるので、私の正確な主張について少しばかり説明する。

人間、評価をする側と評価をされる側に確定的絶対的に分かれていることなんてあるだろうかという疑問がまずある。

この点、通常は一人の人間でも評価をする側に周ることもあれば、評価をされる側に回ることもあるだろう。

要はどっちもなのだ。

ここで、評価をされる側の立場を全く考えずに言いたいことだけ言って終わりという人も中にいる。

それが必ずしもマイナスに働くとは限らないが、私はどちらかと言うと、そういう人は苦手である。

いや、苦手という表現も正確ではなく、感じたとおりに表現すると、そういう人達は世の中を息苦しくしているんじゃないかと思うことがあるのだ。

私は息苦しい世の中はあまり好きではないのだ。疲れるし、疲れるし、生産性を落とすだろうし、何より楽しくない。

したがって、評価する側には、評価される側にある程度配慮した物言いというものは大切だと思っている。

この記事で何が言いたかったのかというと、「もしあなたが評価される側の人間だった場合、あなたのほうがレベルは上なので、自信を持って欲しい」ということと、そして、「もしあなたが評価する側の人間だった場合、あなたは評価される人間よりレベルは低い。そのことを頭に入れて評価するようにして欲しい」ということだろう。

こう考えれば、世の中の息苦しさも少しは緩和されるだろうと思われる。

まあ、私の価値観によると、レベルなんて存在せず、社会的に偉い人であれ、そのへんのおばさんであれ、みんな同じようにしか見えんのだが。しかし、人は私を含めて傲慢に陥りやすく、かつ劣等感に苛まれやすいので、上のような姿勢を紹介した。おわり。


悪いこと



この前、違うブログで悪い広告の話をしたんだけど、もう一つだけ補足すべきことがあったのを思い出した。

本来ならそっちに書けばいいんだけど、同じような指摘ばかりで感じ悪い気がするので、こっちに書くことにする。

「悪い広告はあるよ、法的にも」みたいなことを言った。

ここで、多分だけど「悪い広告なんてあるのか?ないだろ。正しい広告もなければ悪い広告もないよ」と考えた方もいるのではないかと思う。

理由としては、そういう人はとりあえず反発したかったり、反論したかったりする心理的傾向があるからだと思う。

ただ、その部分は単なる反射運動みたいなものなので、特に気にしてはいないけれど、今回のケースでは続いて「法的にダメなことは、必ずしも悪いことではない」という反論があり得るので、その部分の補足になる。

法律の定義によると「違法性=悪いこと」(特に刑法など)と考える立場があり、そして、そのような考えがむしろ一般的だったりする。

なので、このように考えた場合、法的にダメなことはイコールで悪いことに繋がる。

世間的には法的にダメなことを直接悪いことにつなげることはしないかもしれないが、ここではそういった意味愛をこめて「悪い広告」という言葉を使っていたりする。

もちろん、広告というテーマは、行政や民事に近い印象だし、その場合、違法性=悪いことに即座に繋がるものではないかもしれない。

しかし、違法性=悪いことと考えるのは法的にはそれほど変なことではなく、そういう考え方もあるのだと思っていただければ幸いに思う。

私自身の価値観からすると、悪い広告と良い広告なんていう区別は、多少違和感があったりもする。しかし、本件のテーマではその部分(良い悪いの区別の部分)は本質ではなく、割とどうでもいい部分なので、やはりそういった部分を注目されすぎるのは何というか、間違いだと思う。

この記事で伝えたかったことは、「反射的にある部分の反論を思いついたり、批判を思いついたり、攻撃を思いついたりといった考えに取り憑かれてしまい、そこに熱を入れてしまうと、本質を見落としがちになる」ということだ。

自分の立場しか考えない人や相手を攻撃することしか思いつかない人は要注意かもしれない。

そんな感じの話を本来書きたかった気がする。

ただ、最初に述べたように同じような指摘ばかりで感じ悪い気がするので止めておいた。

私ならどうするかについてだが、私なら多分、なんで相手はあえてこの表現を使ったんだろう?って考える気がする。

まあ、基本適当に書いているだけだし、適当すぎるブログであり、適当すぎる文章なわけだけど、そんなものでさえ、何事にも理由があるということなのかもしれない。おわり。


雑記


特になし。

何かを書く気もあまりしないので箇条書きで最近考えたことなど。

  • 作品の世間的な評価については既になされている物が多く、それは売上が全て。それ以外には何も必要はない

  • ただし、レビューについては購入を考えている場合に限って参考になることもある

  • 言い訳するからダメなんだ、だから時代に乗り遅れるというような誰もが真っ先に思いつくようなことばかり反射的に考えていてはダメ。そういうのは他の人に任せて、自分はその先を考えよう

  • その先というのは、例えば問題の解決法。批判は簡単だし、誰だってできる。それは、みんなやっていることだし、世の中にあふれていること。なので、僕はそういうことはできれば他人任せにしていきたいと思った

  • ただし、批判すべき事柄の批判が少なかったり減ってきたりした場合、批判するのは良いかもしれない。必要なことのように思えるよ

  • 需要と供給バランス良く。どちらが多くても無駄が生じる